追体験 霧晴れる時出版トーク2-4

兄の発症は15歳。地獄のような日々を乗り越えて家族は今(後編-きょうだいの立場)

追体験 霧晴れる時出版トーク2-4

みんなねっとライブラリーシリーズ第1弾『追体験 霧晴れる時』(青木聖久・著)の第14話では「母と子」、15話では「妹と兄」。

精神障がいがある人の同じ家族を追っていますが、立場によって受け取り方は異なっていました。

ここでは、第15話から「きょうだい」の立場を取り上げます。

 

なお、文中の「私」は著者の青木聖久先生、紹介しているお名前は全て仮名です。


第15話◉妹と兄「長い心の旅路を通して、扉を開けることができた」

今回は、第14話でお伝えしたように、星 明子さんの娘の江藤 沙織さん(50歳代、女性)をご紹介します。私は前話の記事を書くにあたり、明子さんと約20年ぶりの再会を果たしました。その際、沙織さんも一緒に来てくださったのです。

私の夢は海外に住むことだった

沙織さんはかつて、1961年に出版された、小田実さんの世界旅行記『何でも見てやろう』をバイブルにしていました。高校時代、海辺の道を通学しながら、海の向こうはどうなっているかを知りたいと思っていたそうです。

「私の夢は海外に住む」。このような夢を持っていた沙織さんが、今回、約半世紀前の1枚の白黒写真を送ってくれました。そこには、本来シャイな父親の純一さんがベェーと舌を出し、幼少時のお兄さんの太一さんがふざけて妖怪ポーズをとり、そして、晴天の空を見上げ、笑っている沙織さんが写っていました。3人とも幸せ一杯の表情で。

人は病むんだ

沙織さんは、もともと快活な少女でした。ところが小学6年生になった頃に、大きな転機を迎えます。真面目で、野球好きだった兄の太一さんが精神疾患を発症し、家の中だけでなく、外でも独り言を言ったり、大声で叫んだりするようになったのです。沙織さんは、精神疾患について、人から教えてもらったことは無かったのですが、それでも小学生ながら、「人は病むんだ」と感じたと言います。

友だちに言えなかった

それ以降も、太一さんの状態が変わらないなか、沙織さんは思春期へと成長をしていきます。沙織さんは家の外で、太一さんがぶつぶつ言いながら、狐のような表情になっていることが、恥ずかしくて仕方がありません。

とはいえ、沙織さんは社交的な性格だったので友だちも多かったのです。地元の友だちは、太一さんのようすを当然知っています。でも誰一人として、「あんたのお兄ちゃんは」のようなことを言わなかったそうです。

沙織さんいわく、周りの子に恵まれ、その子たちはデリカシーがあったから。
「もし仮に、兄の病気のことを周りから言われていたら、私は駄目になっていたと思います」。
とはいえ沙織さんが一番辛かったのは、自分の気持ちを友だちにも、誰にも言えなかったことでした。

逃れられない家族は地獄のようだった

一方、太一さんは学校で、いじめを受けていました。背中に「ばか」と書かれたり、筆箱を切り刻まれたり。でも太一さんは、サンドバッグのようにいじめを受けても、決してやり返しません。そのようななか、唯一の捌口が父親の純一さんで、2人は取っ組み合いのけんかをするのです。

このような悪循環を目の当たりにして、沙織さんは、逃れられない家族は地獄のようだった、と当時の心境を語ってくれました。しかし、純一さんに対する当時の思いは、第14話で紹介した明子さんとは異なります。

父は愛情表現が下手だった

沙織さんは、純一さんについて、愛情表現が下手だったので、その場に居たとしても、いないような感じだったと言います。そのことから、自身が思春期に至るまでの父親との記憶はあまり残っていません。それでも思い出すのは、いつも悲しそうな表情をしていた純一さんの姿でした。

純一さんは仕事人間で、家の中に居場所を作れませんでした。また、仕事が休みの時にも、子どもたちにどのように関わっていいのかわかりません。「心の中では、子どものことを思っているんだろうけど、私たちには伝わらない。なので、兄にしても、何かあった時にだけ言われても、余計に反発をしたのでは」と振り返っています。

母は家族会を立ち上げて救われた

この頃、沙織さんの感覚として、「家族は暴風雨の中に入っていた。そこから、どうやって生きていくのか」。そのような時に、母親の明子さんは、自宅を開放して、作業所と共に家族会を立ち上げたのです。

沙織さんは、明子さんに家族会の仲間ができ、徐々に気持ちが楽になっていくようすが伝わっていました。また明子さんは、家族会の運営や太一さんのことで、たまに息詰まると、沙織さんに吐露することがあったそうです。

でも、吐露された沙織さんは、「私はこの気持ちを、誰に言えばいいのだろう」。沙織さんは、このような思いを40年以上前から背中に担ぎ、今日まで歩き続けてきたのです。

主人もわかっているけど普通に接していた

その後、沙織さんは結婚し、息子の翼さん、娘の志保さんに恵まれます。夫は、交際している間も、結婚してからも、独り言を言ったり、奇妙な動きをしたりする太一さんと何度も会っています。同様に、こどもたちも、太一さんに会うことは何度もありました。
でも、病気のことを特段説明しなくても、今日まで特別視せずに接し続けています。

きょうだい会(セルフヘルプグループ)に参加しいろんな経験をひっくるめて自分の人生と思えるようになった

沙織さんは、これまで自身の境遇から、いろんな景色を見てきました。感じてきました。それは、何層にも重ねたり、離したり、を繰り返しながら。そのようななか、3年ほど前に、きょうだい会(セルフヘルプグループ)に参加する機会を得たのです。すると、そこには自分と同じように、精神障がいのある人のきょうだいとして、苦しさを背負いながらも、前を向いて歩いている人たちがいたのです。

その時、沙織さんは、不思議とそこで素直になれる自分に気づきました。そして、次のように思ったと言います。
「これまでいろんな経験をしたことについては、苦しかったとか、良かったとは言えない。でも、すべてをひっくるめて、自分の人生だな」。
また、そのことがきっかけとなり、沙織さんは、明子さんがずっと関わっているNPOの研修会にも足を運ぶことにしたのです。

「うちのおばあちゃん、尊敬するわ」

時は進み、息子の翼さんは素敵な奥さんと結婚されました。その翼さんが、何と、この研修会に奥さんと一緒に参加したのです。研修会のシンポジウムでは、祖母の明子さんが登壇し、ユーモアを交えつつも、これまでの自身の歩みを堂々と語りました。

研修会終了後、翼さんは奥さんに「うちのおばあちゃん、すごいやろ。尊敬するわ」と。この話を聞いたとたん、沙織さんは、父や母がこれまでやってきたことは、子どもたちにも受け継がれているんだ、と思ったそうです。
現在、翼さんは教育関係の仕事に就いています。

長い心の旅路

沙織さんは、太一さんが発症後の約9年間の歩みのなかで、少しずつ、精神障がいのこと、家族のことがわかるようになってきました。ただし、それはあくまでも頭で。

ところが、きょうだい会という、沙織さんが安心して語り、聴き、共感できる場に出会うことによって、頭でわかっていた知識と、自分が抱えていた思いとがつながっていくことに気づくことができたのです。

「兄も辛かったんだろうな」と心から想えたそうです。
そのように感じることができた時、これまでのことをすべて許すことができた、と言います。本当に、長い心の旅路でした。

これまでも、兄が好きで病気になったわけでないことは理解しているつもりでいた。でも、兄が病気になってからというもの、夢を自然とあきらめるようにしている自分がいた。恨みが無かったと言えば嘘になる。でも、それも含めて自分の人生。

沙織さんは、太一さんが発症してからの40年強の月日を積み重ね、今、純一さんや明子さんに対しても、本当の意味で向き合うことができているのです。

扉を開けることができた

沙織さんは、いつも大変なことが一杯のはずなのに、明るく行動する母を応援してきました。しかし、父親に対して、これまで肯定的に捉えることはできませんでした。また、太一さんに対しても同様でした。

でも、自身がきょうだい会につながり、客観的な情報に加えて、人の情にふれるなかで、「兄は壮絶ないじめを受け続け、これまでの人生を全否定されてきた。自己肯定感は、ずたずたになっていた。悔しかっただろう、苦しかっただろう」と。
これらのことに気づくことができ、沙織さんは今、扉を開けることができたのです。

想いや行動は伝承されていく

沙織さんの孫の大介君は、ある日保育園で、「嫌な仕事」の話になりました。すると、ほとんどの園児が「そんな仕事、したくない」と言うなか、大介君は、きょとんとして、「喜んでいる人の顔を思い浮かべたらできるようになるよ」と言ったそうです。

沙織さんは、兄が病気になり、家の中が嵐のような状態になっていた時、「生まれてこなければよかった」と何度も思ったことがあったと言います。
しかし、孫のこの言葉は、両親、そして沙織さんの想いや行動が、確実に伝承されていることを実感できた瞬間でした。

(『追体験 霧晴れる時』より)

追体験 霧晴れる時

【2刷】追体験 霧晴れる時

青木聖久(著)

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生涯を通じて5人に1人がこころの病気にかかるともいわれる時代。(厚労省みんなのメンタルヘルス)。そのとき家族は過去をどう乗り越え、「霧晴れる時」を迎えることができたのか。15家族の実話。

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