追体験霧晴れる時紹介記事

15歳で精神障がいを発症した長男。あんな事、こんな事、全て受け入れ頑張った(前編-母の立場)

追体験霧晴れる時紹介記事

『おかあちゃん、こんな僕やけど、産んでくれてありがとう』にお葉書をお寄せ下さった女性は、精神障がいがある人の家族で、関西在住の80歳代の方。

みんなねっとライブラリーシリーズ第1弾『追体験 霧晴れる時』(青木聖久・著)の第14話「母と子」、15話「妹と兄」で家族の人生を掲載させて頂いていたのです。
ここでは、『追体験 霧晴れる時』から一部抜粋してご紹介したいと思います。ぜひ、皆さまにも家族の思いを追体験していただければと願っています。
なお、文中の「私」は著者の青木聖久先生、紹介しているお名前は全て仮名です。


第14話◉母と息子「子どものように天真爛漫で、夫婦漫才では決まって突っ込み役」

今回ご紹介するのは、星 明子さん(80歳代、女性)です。今から約20年前、私はユーモアにあふれ、周囲を一瞬にして明るく包み込んでしまう星さんと出会いました。

また、当時星さんに会う時には決まって、几帳面さが前面に出ており、少しはにかみ屋の夫の純一さんも一緒でした。

2人が話していると、夫婦漫才そのものもので、星さんはいつも突っ込み役でした。

15歳の子が薬を一生飲み続けないといけないのか

星さんが嫁いだ家は、新刊と古本の両方を扱っている本屋。純一さんは大企業に勤めるサラリーマン。
星さんは、本屋の店番をしながらも、愛情をもって子育てをしました。その甲斐があり、長男太一さん、長女沙織さん共に素直な優しい子に成長しました。

ところが、太一さんが中学3年生になった頃、急に英語の1つの単語を何ページにもわたって書き綴り、机の前から離れられないようになりました。

星さんは、英語を勉強するにしても何か違うと感じ、知り合いに相談をし、その結果、たどり着いたのが精神科の外来でした。

すると、診察した医師は、星さんに対して、太一さんが精神疾患を発症していると共に、薬を飲み続けないといけないことを告げたのです。
その話を聞いたとたん、星さんはぼう然とし、太一さんと自宅に帰る途中、「どうして、15歳の子が薬を一生飲み続けないといけないのか」と泣きながら帰ったそうです。

藁にもすがる思いでおあげを100枚供える

しかし、本当の大変さはここからだったのです。

まず、始まったのが太一さんの自傷行為でした。崖から飛び降りたり、身体を火で焼いたり、さらには、ガラスに頭から突っ込んだこともあり、血まみれになることも何度となくあったそうです。

星さんは藁にもすがる思いでした。

近くの神社で、おあげを100枚夜中に供えると効果があると聞くと、実際、指定された時間におあげを用意して、拝んでもらったこともありました。

「もうそろそろ寝たか」

星さんは太一さんの病と共に、もう1つ、辛かったことがあったと言います。それは、夫の純一さんと太一さんとの関係でした。

元来穏やかな性格の太一さんは、いくら学校でいじめを受けようとも、やり返すことはありません。ところが、純一さんに対しては手が出るのでした。

また、純一さんも本来寡黙な人でしたが、自分が何とかしないといけないというような気持ちもあってか、2人の取っ組み合いが絶えなかったそうです。

とはいえ、純一さんは、取っ組み合いをすることが生産的でないことはわかっています。

そこで、純一さんは自分の顔を太一さんが見ると興奮することから、仕事帰り、途中の駅から星さんに、「もう、そろそろ(太一は)寝たか」と電話をかけるのです。

そして、起きていることがわかると、たとえ仕事で疲れていようとも、終電まで電車を迂回するように乗り続けていたと言います。

「なんでもないやん」

太一さんの発症から5年程の月日がたちました。星さんは太一さんの病のことを、近所の人が知っているだろうけど、自分から話すことは決してできません。
そのようなある日、近所の人と、ふと太一さんの病の話になりました。すると、近所の人が「なんでもないやん」と言ったのです。

どこの家でもいろいろなことがあるということを、その近所の方は、あっけらかんと、かつ、優しく言ってくれたのでした。

その言葉を聞いた瞬間、星さんは、肩に背負っていた重い荷物をおろせた感覚になりました。と同時に、自身を責め続けていた自分のことを、恥ずかしいと思ったそうです。

自宅を開放して作業所に

この言葉は、星さんに多くの力を与えました。一方で、星さんは、太一さんと同じように病を持つ本人や家族と話をする機会も増えてきました。そして、本人や家族が、地域で語れる場があればいいと考えるようになっていたのです。

これらの多くの事柄が結実して、星さんは40歳代半ばになった頃、自宅を作業所として開放したのでした。

月・水・金の週3日間、10畳の和室に、10組の親子が集い、内職をしたり、お弁当を食べたり、誕生会をしたりというように、まさに草の根的な活動を始めました。

結局、1年もの間、自宅での活動が続き、その後、手狭になると、農園を持つ社会福祉法人が場所を提供し、さらに、運営がNPO法人に継承され、専門職によって複数の事業が展開されるようになり現在に至っています。

「行ってみようかな」

再び、太一さんの話をします。太一さんは、病院への入退院を繰り返しながらも、高校を4年間かけて卒業しました。その後、調理師専門学校に進学し、2年間働くという経験もしています。
それからは、前述のように、病に支配された苦しい日々を送っていました。でも、年齢を重ねるにつれて穏やかになり、今では星さんいわく、「かわいい顔になっていますよ」。

ただし、これまでNPO法人が運営する事業所にもなかなかつながることができませんでした。

そのようななか、つい先日、新たに開設した食事づくりをする事業所に、「行ってみようかな」と。

「息子なりに、いろいろと考えているんだ」と星さんは驚きました。かつて取得した調理師の免許も自信になっているようです。

定年退職後は日々ボランティア活動

かたや、純一さんは60歳になると会社を定年退職。すると、そこから純一さんの第二の人生が始まります。視力障がいのある人の外出支援ボランティア。母親が入った施設には毎日欠かさず通い、散歩に同行。65歳から念願の英語を勉強するために外国語大学の夜間部に入学し、70歳で卒業。その後、あちこちで英語のボランティア。

星さんいわく、「太一のおかげで、お父さんは奉仕精神が高まったと思います」。

定年後の純一さんは輝いていました。そして、太一さんとの関係も良くなりかけた矢先、76歳で純一さんは他界されたのです。星さんは、「きっと、お父さんは太一とお酒を飲みたかったと思いますよ。万民を愛した人でした」と語ってくれました。

心は子どもにとどめて自由に

星さんは、太一さんが発症してしばらくしたころ、精神衛生センター(現、精神保健福祉センター)の相談員から、「心は子どもにとどめて自由に。きっと出口があるから」という言葉をもらったそうです。

その言葉がきっかけとなり、趣味を持とうと考え、洋裁を始め、60歳からは水泳を。加えて、自身の感性を俳句に表現され、NPO法人が発行する通信に毎回掲載されているのです。

寒梅や こころに染める 今ありて   (2017年4月掲載)
バナナ君 捨て身の命 朝の卓     (2018年8月掲載)

やさしくなりました

星さんは、2017年4月に掲載された俳句の前文に、次のように書いておられます。

「息子を通じて教育された私たち夫婦。~中略~ 私も息子を通じて身勝手な自分を少しでも反省し生きて行ける現状に感謝すべきかな」。

星さんは沙織さんに、かつて「昔の私はいけず(注:関西方言で意地悪)だった」と言っていたそうです。そんな星さんは、この40数年間の歩みを通して、「やさしくなりました」と珍しく自身のことを褒められています。

修復できる時間は必ず訪れる

そして、星さんは最後にこう話されました。
「精神の病を子どもが持ったからといって不幸せということはありません。このことだけは世間に伝えたい。修復できる時間は必ず訪れるのです」。

星さんは今も、事業所で作るケーキの裏のシール貼りに週1回、家族会に隔月、たまに研修会等で体験談を語りに出掛けます。どの場においても、必要な人。
これまで、多くの人の泣き笑いに触れてきたからこそ、他者の痛みを我がこととして受け止めてきたからこそ、今では、ちょっとした嬉しいことに気づき、人のいいとこさがしができる星さんが誕生しているのではないでしょうか。だから、多くの人が今日も星さんと話をしたいのです…。
(『月刊みんなねっと』2018年12月号を加筆修正)

*このように語ってくれた星さんですが、ずっと気がかりなことがありました。それは娘の沙織さんのこと。第15話では沙織さんをご紹介させていただきます。

追体験 霧晴れる時

【2刷】追体験 霧晴れる時

青木聖久(著)

¥1,430

生涯を通じて5人に1人がこころの病気にかかるともいわれる時代。(厚労省みんなのメンタルヘルス)。そのとき家族は過去をどう乗り越え、「霧晴れる時」を迎えることができたのか。15家族の実話。

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