8月15日終戦の日。 出版社としてできることは何だろうと問い続けています
このブログは、2018年にアップした内容です。
8/15に、再度お読みいただきたく、再掲させていただきます。
8月15日は終戦の日です。
1945年(昭和20年)8月15日の正午、玉音放送により、日本の降伏が国民に伝えられ太平洋戦争が終結しました。
この特別な日を迎えるたび、出版社として、編集者として、親として、何ができるのだろうということを自らに問わずにはいられません。
戦争を体験した両親から生々しい体験の話を聞いて育った「戦争2世」でありながら、親世代が次々と亡くなっていくことの焦り、伝えていかなければという使命感、一方で何もできないもどかしさ。
様々な過去と現在が複雑に入り交じった感情を抱えながら、毎年この日を迎えています。
「いっちゃん」との出会い
そんななか、2016年1月、うちの著者さんを介して1本の原稿と出会いました。
主人公は「いっちゃん」です。
『黄色いマントウと白いおにぎり』と仮題がつけられた、約46000字に及ぶその原稿は、10歳のときに、5歳の弟をつれてたった二人の幼い姉弟だけで、満州から故郷・静岡へと引き揚げてくるという母の体験を、長女の泉さんが聞き書きをし原稿にまとめあげたものでした。
副題は、「いっちゃんとキヨシちゃんが歩いた満州五五〇キロ」
当初、私は出版をお断りするつもりで読み始めました。 理由は、「一般の人の戦争体験記は売れない」(といわれている)から。 申し訳ない理由です。
JR明石駅から大阪駅へと向かう新快速、約40分。 プリントアウトした分厚いコピー用紙の左上をダブルクリップでとめて、いつものスタイルで速読していきます。
主人公は、著者の母、「いっちゃん」。
「いっちゃん」の目線で物語が進んでいきます。
すでに仕事で満州にわたっていた両親とひとり離れ、祖父母のもとで温かく育てられた静岡での幼少期。
家族とともに満州にわたったのちも、不自由なく国民学校で学び、戦時中ではあったが、のびのびと育った幸せな日々。
やがて、8月15日。 その日から、家族の生活は激変。 繰り返される強奪。 突然、中国兵に連行された「お父ちゃん」。(のちに「通化事件」と呼ばれる約3000人の日本人が虐殺された事件) 残された家族。
病気の「お母ちゃん」にかわって家事すべてを担う10歳の「いっちゃん」
栄養失調で幼い命を落とした1歳の弟。
親代わりで育てていただけに、尽きることのない後悔。(それは今も続いている)
やがて日本への引き揚げ。
なぜ、幼い姉弟だけの引き揚げとなったのか。幾多の困難を、なぜ乗り越えることが出来たのか、そして故郷へ帰り着くことができたのか。
行く手を阻む困難の数々を幼い姉弟、「いちゃん」と「キヨシちゃん」は、がんばって、がんばって、歩き続けながら乗り越えていきます。
道の両端には、帰路で命果てたおびただしい数の遺体の山。
「こんなところで死ぬのはヤダ!」 困難を乗り越えるたび、二人はどんどんたくましくなっていきます。
毎夜二人は、たいせつなリュックサックをはさんで野宿し、夜空の星を見上げながら誓うのです。
「生きて帰ろう。生きて帰って、お母ちゃんと会うんだ。それが、お母ちゃんとの約束だから」
そうして二人は、生きて静岡に行き着きます。 目の前には、祖母が作ってくれた真っ白なおにぎり!
いっちゃんとキヨシちゃんが、真っ白なおにぎりを頬張っているとき、祖母は、いっちゃんが着ていたワンピースを洗濯しようとリュックサックの中からとり出します。
砂埃でどろどろ、ぼろぼろ。 もとの形すら、もはや残っていません。 それを見たとたん、祖母はワンピースに顔を埋めて嗚咽するのです。
このシーンは泣けました。読み進めていたわたしも、一緒に嗚咽していたのでした。
こうして、大阪駅につく頃には、どう編集して出版しようか、と考えを巡らしていたのです。
本の出版。『お母ちゃんとの約束いっちゃんとキヨシちゃんが歩いた満州五五〇キロ』
この原稿との出会いから、10カ月。 11月に、本が出版されました。
『お母ちゃんとの約束いっちゃんとキヨシちゃんが歩いた満州五五〇キロ』
新刊と同時に、この本は、静岡新聞、毎日新聞、神戸新聞など、新聞各紙のほか、ラジオでもで大きく取り上げられます。
そして、多くの、本当に多くの方から、感想が寄せられるのです。